読むこと、書くこと。
聞くこと、語ること。
芹沢高志
『100の読者、100の経験』が始まって以来、私は毎回、ここに寄せられる数々の言葉に驚いてしまう。深い敬意を込めて驚いてしまうのだ。各人が『言葉の宇宙船』のどこかに反応し、それがきっかけとなって自分たちの経験を自分たちの言葉で語り始める。そのみずみずしさ、多様さに驚き、<読む>とは極めて能動的、創造的な行為なのだとあらためて実感する。
考えてみれば、『言葉の宇宙船』自体、そうやって始まったと言えなくもない。港千尋さんからの一通の手紙。その文末に書かれてあった「夏への扉の日に。」という一言がまるで合言葉、あるいは合鍵のように働いて、私のなかに潜んでいた数々の扉が開き始める。それが始まりだった。
私に<聞く>という行為の創造性に気づかせてくれたのは、「みやぎ民話の会」の小野和子という存在、そして彼女のやり方に深く触発を受けてつくられた酒井耕、濱口竜介の『なみのおと』、『なみのこえ』、『うたうひと』という東北記録映画三部作だった。小野和子は民話の語り部を前にして座り、今日はどんなお話を聞かせてくれるの?と優しく問いかける。すると語り部たちは、頭の中の奥底に仕舞い込んでいた民話たちを解凍でもするかのように、一気に話し始めるのだ。聞き手がいてこそ、語り手が生まれる。
さらに濱口はここで聞くことの力を確信し、聞くことを果敢に演技の方法論に取り込んで、劇映画『ハッピーアワー』をつくりだした。この映画に出演する演者たちは、聞くことに焦点を当てた濱口の「即興演技ワークショップ」の参加者たちだ。5ヶ月に渡ってひたすら聞くことを学び、体験した彼らが、『ハッピーアワー』では演者、語り手となる。それまでほとんど演技経験がなかったにも関わらず、彼らは活き活きと変容し、映画は第68回ロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した。
もちろん聞くことと読むことは違う。しかし私は、『100の読者、100の経験』でも同じような化学反応が起こっているような気がしてならない。聞くことが語ることを誘発し、読むことが書くことを誘発する。
本の外縁で生まれる波紋の連鎖。
本の外縁とは生成の現場なのだ。
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